日本語教師のつぶやき

毎日新聞連載記事

目次


1984年11月25日(日曜日) ◆教えるのは難しい◆

 「交番の前に病院がいます」とか「おまわりさんがあります」日本人なら誰もこんな言い方はしない。どうして間違えないか、と聞かれたら、子供のころから自然に覚えたから と答えるだろう。しかし、外国人に対する日本語教育では、私達が無意識に覚えてきた日本語を体系的に指導しなければならない。 「います」は生物に、「あります」は無生物に。生物でも植木のように動かないものには「あります」を使うという具合に。  「私の家に猫がいます」「私の家に桜の木があります」 学生に初級の段階で教えたつもりの文型でも、上級クラスで作文を書かせると「います」 「あります」を聞違って使うことが少なくない。日本語教育は難しい。 (日本語教育学会会員 佐々木瑞枝)

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1984年11月26日(月曜日) ★「ウミのサケ」は通じない★

 「先生、この闇、梅酒を買いに行ったんです。  でも酒屋のオジサンは、私の日本語が分からないらしくて、買えませんでした」。日本に来たばかりのオランダ娘=写真=が、日本人の家で出された梅酒の味が忘れられず、買いにいったという。 「酒屋で何言ったのですか」「ウミのサケ下さいと言いました」  「ウミのサケ?」  思わず吹き出してしまった。酒屋さんにしても、いきなり外人が飛びこんで来て、巧妙なアクセントで訳の分からないことを言われたら、面くらってしまうに違いない。ウメとウミ。彼女にしてみればeとiの隣同士の母音を間違えただけにすぎないのかもしれないが、梅と梅、全く違ってしまう。せめて「ウミシュ」と言ってくれれば良かったのに…。

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1984年11月27日(火曜日) ◆教え方が違う◆

 「あなたは日本に来る前に、日本語を習っていましたか」という質問をしたところ、留学生百人のうち約半数の答えは「ノー」だった。中には日本の大学では、英語で講義が受けられると思っていた学生が三十六人もいた。来日前に日本語を勉強して来た学生でも、いざ大学で講義を受けるとなると、ほとんど聞き取れないという。彼らはごく限られた時間で日本語をマスターしなくてはならない。  私たち日本人は無意識に日本語を習い覚えてきた。しかし、外国人に教える場合には、全く違った教授法か必要になる。国語の教師と日本語の教師は違うのである。

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1984年11月28日(水曜日) ◇アメリカの方が得◇

 留学生と一口にいっても高専、大学、企業研修生と様々である。大学院まで進み、専門分野を研究する学生も多い。「先生、同じ留学するなら、日本よりアメリカの方が得です」とある中国から来た留学生。「どうして?」…私はてっきり、彼が日本語と英語の問題を話し始めると思った。 日本の大学で勉強するためには、まず日本語を学ばなければならない、とても苦痛だ、という声をよく耳にするからである。ところが彼が話したのは「アメリカの大学院で二年勉強すれば、マスターがもらえます ところが、日本では修士過程終了というだけで、なかなかマスターが取れません。同じに勉強して帰っても、中国での評価のされ方が全く違いいます」。どうやら、この辺にも、留学生の問題がありそうである。

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1984年12月3日(月曜日) ★ヒッチハイクの名手★

 諸外国から来た国費留学生を受け入れている東京の駒場留学生会館の住人に、ヒッチハイクの名手がいる。もう二年も日本にいるのに、日本語はあまりできない。ただ京都、広島、金沢など地名の漢字は、かなり覚えている。地名を書いた大きな紙=写真=を掲げて、高速道路の入り口に立つからだ。 「車が山まるまで、どのくらい待つの?」。「すぐさ。待っても十分ぐらい。たいていは一、二分で乗せてもらえるよ」。  「京都」と漢字で書かれた大きな紙を持った外国人を見たら、ふと車を止めてみたくなるのかもしれない。思わぬところで、漢字の効用を知って、笑ってしまった。

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1984年12月4日(火曜日)  ◇第二外国語◇

 海外で日本語を学習している人は、六十八カ国で約四十万人と言われている。中国では「日本語」のラジオテキストがあっという間になくなったという。オーストラリアや韓国などでは、日本語が高校の第二外国語の一つに加えられているそうだ。  私が十年前に日本語教師を始めた時、日本語を勉強する人が、こんなにも多くなろうとは、思ってもみなかった。  当時、日本語を習う人はほぼ日本研究家に限られていたし、日本に滞在している外国人でさえ、英語でコミュニケーションすることが多かった。  今、日本語は私達日本人だけのものではなくなろうとしている。日本語が国際語になりつつあるというのは、言い過ぎであろうか。 この流れを大切にしたいと思う。

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1984年12月5日(水曜日) ◇ドッキリ生徒

 五年ほど前、手ごわいイギリス人に日本語を教えたことがある。私が部屋に人って行くと、いつも立ち上がって迎えてくれるような礼儀正しい人だったが、授業中の手厳しい質問には、いつも悩まされた。  「日本では土地によって焼き物が違うようですが、地図の上に焼き物の種類を書いて頂けませんか」 「連歌と俳句の関連性は?」「文化の向上という言葉をよく聞くが、日本人が使う文化の意味は?」  「教えた」というより「一緒に勉強した」というほうが正しい。次の時間は「文楽について」などと決め、私もひと通りの準備をして?戦場〃に向かったものだが、それでも手痛い傷を負って帰ることが時々あった。現在、そのイギリス人の名は、新聞でも時々見かけるし、歌舞伎の英文解説などでも活躍されているようである。

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1984年12月6日(木曜日) ◇日本語で話して

 彼の名はハタニン。フィンランドの留学生。数学専攻。東大の大学院で勉強中。  「日本人て、外人は誰でも英語を話すものだと思い込んでるね。フィンランド人だといくら言っても、英語で話しかけてくるんだ。おかげでちょっとも日本語、上達しないよ」。  彼にとっても英語は第二外図語、私達と同様である。日本にいるほとんどの留学生は日本語を勉強している。まず日本語で話しかけてあげたらどうだろうか。  ところでインドネシアでも、外人は誰でもオランダ人と思ってしまう、とある留学生が言っていた。

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1984年12月8日(土曜日) ★評判が悪い日本人は?★

「日本事情」のクラスで日本史を勉強中、「先生、韓国で一番悪く思われている日本人、誰か分かりますか」と聞かれた。ちょうど戦国時代の説明をしていた時のことだったのでピンときた。「豊臣秀吉でしょう」。「そうです。私は子供のころ秀吉のことを聞いた時、まだ生きている人だとばっかり思っていました」。  確かに韓国人の心の中に秀吉は、まだ生きている。 侵略者日本人の象徴として。にこやかに笑いながら日本語を勉強している彼の心の中にも、生き続けているのたろう。 「もう、そんな古いこと言い出さないで、仲よくしましょう」と言う前に、私達は彼らの心の申にある苦々しい思いを、察しなければならないのかも知れない。

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1984年12月9日(日曜日) ★輝かしき未来への自信★

 カメルーン、コートジボアール、ケニア、セネガル……。アフリカ諸国から来た留学生たちは「私達の国にも日本の製品があふれている。そして自分たちはそれらを作り出す日本で勉強したいと思ってやって来た」という。  学生たちと接しているうち、ある百年が本音をちらっとのぞかせた。「日本の技術は尊敬しているが、黒人は肉体的に優れている。インテリジェンスとテクノロジーを身につけたら、我我は世界のリーダーになるだろう」と。  そこには「飢えるアフリカ」とは異なる、未来のアフリカの指導者となるだろう、誇り高き青年たちの顔がある。

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1984年12月10日(月曜日) 奥さんに運ばせる

たくさんの教材と一緒に、大きなテープレコーダーを抱えて、三階の教室に上がるのは大変。「お持ちしましょう」と言いってくれたインド人の言葉に、喜んでテープレコーダーを渡した。彼は美しい奥さんと二人で日本語クラスに通っている。ところが、実際に運んでくれたのは、サリーに身を包んだ奥さんの方。  「あなたにお願いするつもりじゃなかったんです。自分で運びますから」と私。彼女は「いえ、私が持ちます」と言い張る。私は、さっさと手ぶらで上に行った彼に腹を立てた。  彼女は「新聞見合い」をさせられて結婚したという。新聞の一面に女性の顔写真、経歴がずらっと載る。男性は、その中から未来の妻を選び、貴ばれた女性は、見ず知らずの男性に嫁ぐという。

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1984年12月11日(火曜日) ◇才女の誤解

「いつ日本に見えたのですか」−ハーバード大学の大学院で日本文学を専攻したという綬女にたずねたところ、彼女ムッとした表情で「私はオバケではありません」と答えた。オバケ? 冗談を言っているのかしら。しかし、ダンマリ、ムッツリの彼女に、その気配は全くない。「私は、いつも見えます。消えることはありません」と。  「いつ日本にいらっしゃいましたか」と言い直したけれど「いらっしゃる」なら分かるとして「見える」とは文法的におかしいではないか、と彼女はいつまでも、こだわっていた。西鶴に通じている役女も、文学の知識だけでは、日本語は話せないとみえる。

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1984年12月12日(水曜日) ◇ハングルの書道

 毎週金曜日、日本語クラスが終わってから、書道の時間がある。写真は韓国の虞さんの作品。ハングルで書かれた書は初めて見たが、韓国の学校では、漢字と一緒にハングルも習字の時間に練習するとか。  「これは光明大地という意味です。漢字とは違う味があるでしょう」と虞さん。 そう一言われてみると、味もそっけもなく、まるで記号のように感じていたハングルが、突然意味を帯びてきた。韓国で漢字は新聞でも見出しに使われる程度で、義務教育では習わないという。「私が最後の漢字世代です。私より古い人たちは学校で漢字を勉強していませんから」と、虞さんは言った。

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1984年12月13日(木曜日) ☆現地の青年教師の悩み☆

 「先生、私は韓国の教育大学で日本語を教えていましたが、会話は全然自信ありません」。文部省の奨学生である韓国の青年教師は言う。彼は私の教える「新聞クラス」で日本語を勉強中だ。  留学生の中では日本語が際立って上手だが、日本語の先生となると、首をかしげたくなる面もある。大変な勉強家で、これだけの日本語能力を身につけるために、さぞ苦労しただろうと思われるが、限られた先生と少ない教材では、なかなか自然な日本語を話すまでにはいかないらしい。  来日の経験がなく、海外で日本語を教えている先生も多い。国際交流基金では毎年夏に、海外から日本語の先生を七十人ぐらい招き、日本語研修会を行ったり、実際の日本の姿を見てもらうように努めているという。  日本語教師が日本人である必要はない。現地の優れた先生を育てることも、これからの日本語教育に欠かせない面であろう。

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1984年12月15日(土曜日) ◇資格は「なし」

「日本語の先生になりたいんですが、どこで資格を取ればいいんですか」とよく聞かれる。残念ながら今、資格というものはない。逆に考えれば、ないからこそ難しい。あちこちで「日本語教授法講座」が開かれているが、講習時間、教授法もまちまち。権威有るものの中では、日本語教育学会主催と国立国語研究所のもの。私が出たのは前者で、海外に派遣する日本語教師を養成している。 昨年は十九人の受講生に対し二百人の応募があった。欠席が許されず、リポートあり、テストあり、最後には成績までつくというハードなものだ。受講生の中にはシルバーエージの方も含まれ、現在、海外で活躍中。派遣先は主に発展途上国が多く、日本語を教える力カブラス・アルファが要求されるだろう。何かの時に豊かな経験がものをいう。シルバーエージの方々、日本講教師に挑戦してみては! 日本語教育学会の会員数は現在千三百人だ。

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1984年12月17日(月曜日) 言葉の区別つかない

 「日本語クラス」のあと、先生方の間で雑談に花が咲く。ある先生「今日、長音の指導をしたんですよ。まず『ア』。おばさん、おばあさん。次は『イ』おじさん、おじいさん。それで『ウ』になって、ウッとつまってしまってね。思いつかないんですよ、ウの長音が。  そこで皆で考える。なるほど、すぐには思いつかない。「主人、囚人、受賞、重傷は『シュ』の長音で、純粋に『ウ』の長音とは言えないわねー。数字、筋、数詞、すしなんてどうかしら」と言ったところ、「さすが、今度それ使わしてもらおう」。 「病院」と「美容院」の区別が、つけにくいらしく、「きのうびょいんに行きました」と、どちらともつかない表現をする学生がよくいる。

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1984年12月18日(火曜日) ◇外国人留学生たち

東京の駒場留学生会館は文部省から奨学金を受けている外国人留学生のための宿舎。五十ヵ国百人ほどの学生が共に暮らしている。言葉や宗教は違っても実に仲がいい。毎年十一月二十三日は寮を開放する「オープンハウス」一つまり彼らのお祭りの日。留学生達は、民族衣装を着て、お国自慢を披露する。  なかでもアフリカの男性だけのダンスはフィリピンがペアで粋に踊ったのに比べ、ふわふわのワンピースのような衣装のせいか、とりわけユーモラスだった。 食堂には学生達が模擬店を用意して「先生おいしいよ」と呼び込みも堂に入ったもの。どこでコックの腕を磨いたのか、なかなかの味だった。慣れない日本の社会で生活する彼らにとってこの日ばかりは故国の味にひたれる日かも知れない。

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1984年12月19日(水曜日) ☆鼻の話だけ?

 「いいわね。英語ができて」−外国人に日本語を教えていると言うと、よく、そう言われる。実際、日本語の教科書には、文法が英語で説明されているものも多い。  しかし、最近どんどん増えている中国の学生の大部分は中国語だけ、南米はスペイン語のみだし、元仏領の西アフリカも、フランス語と母国語しか話さない人が多い。そういう学生が大勢いるクラスで、英語で教えることは、ほとんど意味がない。  そのためもあって、直接、日本語だけで教える直接教授法が主流。そこで初歩クラスでは、ジェスチャーも必要になる。日本に来たばかりのミッチェルが、この間、不思議そうに聞いた。「先生、K先生の話はどうして鼻の話ばかりなのですか」。「私は…」という時、人さし指で鼻を指すのは、日本人だけなのだろうか。

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1984年12月20日(木曜日) 魚には手足なし

 彼の名はロイ。米マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業し、三カ月の予定で日本にやって来た。 「先端技術を産み出す日本人が一体どんなものなのか、この目で見たかったんだ」。私の家に滞在して初めは観光旅行を楽しみ、やがて日本語を勉強したいと言い出した。 「三カ月、日本語を勉強しても無駄だからやめなさい」。じゃ、滞在を一年に伸ばすよ」。 英語の話せる人とだけ付き合うのでは、日本人を見たことにならない。これが彼の持論だった。 それから毎日、日本語学校に通い、覚えて来た日本語を使いたがって仕方がない。夕食の折、お皿の上の魚をつまみあげ「魚には手も足もありません」と言ったので家族全員吹き出した。冗談が言えるほど日本語が上達した訳ではなく、テキストの例文を、そのまま言ったに過ぎない。その彼もMITに戻り、マスターコースで勉強を続けている。

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1984年12月22日(土曜日) ◇授業中も個性的

アメリカンスクール。日本の中のアメリカ。学校は九月に始まるし、祭日もアメリカのカレンダーに合わせてある。個性的な服装を楽しみ、授業中の態度も仲々個性的である。一クラスは十五人前後で、教えるのも楽なはずだが、日本の高校のように、生徒がじっと座って聞いている訳ではなく、疑問があれば「先生、質問」とすぐ手があがる。  日本人なら、そんな個人的な質問は、授業が終わってからするだろうに、と思うことがよくあったが、そんな道理は彼らには通じない。終業式の日、ある先生の部屋に成績表を持った生徒達がつめかけた。成績に納得のいかない点があるというのだ。一生懸命説明している先生の姿を見て、何だか気の毒になってしまった。

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1984年12月23日(日曜日) ◇電話の相づち

 外国人と電話で話したことのある人ならこんな経験をお持ちではないだろうか。こちらが話している間、受話器の向こう側の相手は一言も口をはさまない。一体こちらの話を聞いているのだろうか、と不安になり、つい「もしもし」と確認したくなる。  ところが、外国人に言わせると、電話の途中で「はい、はい」とか「あっ、そうですか」「ええ」などと相づちを頻繁に打たれると、さも「早く電話を切ってください」と言わんばかりで、とても失礼なのだそうだ。日本語クラスで電話のかけ方を練習する時は、必ず相づちの打ち方も教えている。

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1984年12月24日(月曜日) ★「イエス」と「ノー」の身振り

 日本語を教えていると、学生のジェスチャーの意味が分からなくて、こちらがまごつくことがある。「お昼ごはん食べた?」とギリシャのディミトラを昼食に誘おうとしたら、首を縦に振るので、一人で食べに行った。あとでディミトラが不満そうに「あの時、私は、ノー。まだ食べていないと言ったのに、どうして先生は、一人で食事に行ってしまったの」と。 ギリシャで「はい」は日本と同じだが、「いいえ」は、あごを上に突き出す動作をするそうだ。イエスと逆に首を振るわけだ?そう考えてみると、以前に教えたことのあるトルコの学生も、同じジェスチャーをして、同じ勘違いをしたことがある。ああ、またやってしまった、という感じだが、ジェスチャーの違いを理解するのは本当に難しい。

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1984年12月27日(木曜日) 民話劇の主人公たち

 「むかしむかしのそのまた昔、おらがの村に五人八十八(やそはち)おったげな、おったげな」目の前で留学生達が民話の主人公になり切り、朗々たる台詞(せりふ)まわしで「八十八ばなしを演じている。東京外語大日本語科の学生から「外語祭に参加するんですよ」と誘われた時は」まあ学芸会程度のものだろう、とたかをくくっていた。  ところが、どうだろう台湾の葉さん演ずる「おたね」にしても、「なにが亭主だ。女房一人養いきれねえで、この意気地なしが」としっかりもののおかみさんになりきっている。学生達は合宿を重ね、練習したとのこと。韓国の劉さん演じるケンカ稼業の「外道」が着物の裾(すそ)をからげて出て来た時には、客席がどよめいた。四十分間舞台にクギづけにされてしまった。

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1984年12月28日(金曜日)

 「先生にこの間教えていただいた漢字、試験に出ましたよ」と香港から来ている李さん。「あっ、私も、それは出来ました」と他の生徒達。「試験会場、すぐに分かりましたか」と聞くと外国人がたくさんいるから、後について行きました」と皆どっと笑う。 試験とは「外国人日本語能力試験」(日本国際教育協会主催)のこと。  今年は在日外国人約三千人が受験した。海外でも同様のテストが国際交流基金によって行われ、約六千人が受験するという。米国内で勉強する外国人のための英語テスト「TOEFL」の日本語版と言ったらいいだろうか。一級から四級まであり、読解、聴解、語彙(い)のテストが行われた。 日本の経済力を背景に、日本語を勉強する外国人が年々増えている。あちこちに雨後のタケノコのように日本話学校が出現し始めた。中には、つぶれかかった会話学校が、外国人のための日本語クラスを増設して持ち直した、などという話もある。

規格化された 客観テストを

 しかし、日本語の教授法は学校によってまちまちで、「日本語を一年勉強しました」と言っても、日常会話が出来る程度なのか、大学での日本語講義が理解出来、日本人の学生とディスカッション出来る程度なのか、判断に迷う。今回のように、規格化された客観テストが日本、海外を通じて親一的にされれば、留学生を受け入れる大学側も、外国人を採用する日本の企業も、一応の目安がつけられるだろう。

 私達日本語教師にとっては、力量を試されることになる。何年も合格者を出さない学校は、自然淘汰(とうた)されるだろう。どうも厳しいことになってきた。会話力のように客観テストだけでは計れない日本語能力もあるのではないか」という意見もあるが、三千人もの受験者に面接テストをすることは、時間的にも無理があろうし、試験官によっても判断の基準が異なる。テストで能力を計ること自体は、必要悪ではないかと考える。

多様なニーズに 応えられる教師

 日本語教師の数は現在国内で約千人。一口に教師と言っても、留学生、企業研修生、帰国子女、ビジネスマンと教える対象も様々。多様なニーズに応えられる日本語教師を養成するのもこれからの課題だ。  日本人だから日本語を教えるのは簡単、と考える方が多い。そんな方に申し上げたい。「まで」と「までに」はどう違うのですか、と問われた時、どんな説明をなさいますかと?普段、何気なく使っている日本語だが、説明のつかないものも多い。教室で自分なりの解釈を試み、冷や汗の流れる思いで説明したあとも、あれで良かったのだろうか、と心配になることが良くある。

”質”が問われる 時代がやってきた

 日本で百年の歴史を持つ英話教育に比べれば日本語教育の歴史は浅い。日本語を勉強する外国人が、こんなにも増えた今、日本語教師を目指す方も多いだろう。文部省も近い将来、日本語教師の資格認定試験を行う意向であるという。教師の質が問われる時代がやってきた、と言えないだろうか。

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1986年4月28日(月曜日) 外から見た日本語

 外国人が話す日本語を聞いていると、様々な発見がある。外国人の間違いやすい代表的な表現を選び、なぞ解きをしてみた。筆者は日大講師で、日本語教育学会会員の佐々木瑞枝さん。

 *コワイクナイ  由紀さんにはドイツ人の恋人がいる。がっちりした体格から、きまじめな青年を想像していたが、いつもユーモラスな冗談で彼女を笑わせるのだとか。  彼女はとてもこわがり。特に高い所が大嫌い。彼女が「こわい!」というたびに「こわいくないヨ」と大きく腕を広げて抱きしめてくれるという。「こわいくない。コワイクナイ」由紀さんは何回もつぶやく。  外国人にとって、日本語の形容詞は覚えにくいものの一つ。「長い」「高い」「大きい」「重い」「新しい」「固い」「厚い」「おいしい」などのように「い」で終わるものを「イ形容詞」美して教える。否定形は「い」をとって「長くない」「高くない」。ところが「い」を取る作業を忘れてしまうと「高いくない」と何ともおかしな日本語になってしまう。  この冬には「寒いくないヨ」と言って、彼は由紀さんを抱きしめたのだろうか。

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1986年4月29日火曜日 「広いじゃないです」

 文部省から奨学金をもらっている国費の留学生が住む東京・駒場の留学生会館。部屋の広さは三畳から五畳いくらウサギ小屋の国と言えども、ベッドを置くと残りわずかというスペースでは、留学生たちが可哀そう。 西ドイツから来た学生は肩をすぼめながら「私の家はもっと広いだった。ここは広いじ ゃない」と言う。  「広い」はイ形容詞。日本人なら形容詞の分類などしなくても「広くない」と出てくる。  「立派な」「便利な」「静かな」「有名な」「親切な」「きれいな」これらは国語では形容動詞として教えるが、日本語では「イ形容詞」に対して「ナ形容詞」として教える。否定形にする場合は「な」をとって「ではない」「じゃない」をつける。「立派ではない」「有名じゃない」のように。  ところが、外国人にとっては、その区別が難しい。「留学生会館は広いじゃないので便利くないです」のような文が出来あがることになる。

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1986年5月1日木曜日 「ネ」と「ヨ」の違い

 カリフォルニアからやってきた交換留学生のジョニーは、外国人仲間にはとても受けが良いのに、日本人の間では「態度が大きい、生意気だ」と思われている。一体どうしてそんなことになったのだろうか。  敏感な彼のこと。日本語の先生たちの態度が何となく冷たいのに気付かないはずはない。悩んだ末に、私のところにやって来た。  「僕はまじめに勉強してるヨ、だから惑いところないヨ!」 ああ、これだと思った。終助詞の「ヨ」が問題なのだ。「ヨ」を強く発音されると、何だか牧の主張を押しつけられているような気がする。これに「ネ」をつけ加えてみたらどうだろうか。  「僕はまじめに勉強してるよね」となると、相手に同意を求める感じが強くなり「そうよね」と言いたくなる。ほんの一語の違いなのに……。

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1986年5月3日(土曜日)  「彼女は帰国したいです」

 「円」がどんどん高くなり、かわいそうなのは私費留学生たち。国からの仕送りはどんどん目減りし、勉強の時間を削ってまでアルバイトに精を出さざるを得ない。 そう言えば、このごろスーザンの姿が見えない。どうしたのだろうか。俳句を研究したいと目を輝かせていたのに。アリゾナの両親からの仕送りは確か六百? と言っていた。一ドル=二百五十円で、十五万円ならまあまあの生活だろうが、一ドル=百七十円、十万二千円で一カ月暮らすのは、ちょっと大変だろう。  同じアメリカからの奨学生パーカ君、気の毒そうに「スーザンはアメリカに帰りたいです」と言った。彼女の気持ちを代弁したつもりだ。「−たい」は話し手の感情を表す言葉なので、この場合は「帰りたがっています」というべきだ。「私はあの映画が見た い」「彼女もあの映画を見たがっている」 −パーカ君は、まだまだトレーニングが必要のようだ。

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1986年5月4日(日曜日) 「あなたは先生に似ますね」

 我が家にはよく留学生たちが遊びに来る。二人の娘たちも彼らと話すのが楽しくて仕方のない様子。カタコトの日本語と英語が飛びかい、雰囲気はインターナショナルだ。上の娘・美菜は話し方?物腰″スタイルまで私にそっくり。「美菜さんは先生に似ますネ」と、皆感心した様に言う。  「似ている」という言葉なかなか彼らの頭の中に定着しにくいと見える。普通、私たちが「-ている」と使う時は「テレビを見ている」の様に動作が進行中の時、あるいは「私は結婚しています」の様に、結婚するという動作が完了していることを表す時などだ。  これは外国人にも説明しやすいのだが「似ている」となると説明しにくい。こういう説明はどうだろうか。「山がそびえています」の様に、もう既にそういう状態にある時に「「-ている」を使うのですよと。下の娘・由花は私には似ていません。父親に似ています」。

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1986年5月5日(月曜日) ボクにもあげる?

 手焼きのクッキーを教室に持っていった。「わあ、懐かしい、お母さんの味」などと言いながら口々にほおばる。彼らの楽しそうな声が聞こえたのだろうか、隣のクラスのデービッドがドアから顔をのぞかせて「ねえ先生、供にもクッキーあげるでしょ」。これには皆で笑ってしまった。  日本語の授受動詞には「くれる」「くださる」「やる」「あげる」「さしあげる」「もらう」「頂く」などがあり、複雑である。相手が自分より目上か、同等か、目下かによって違ってくる上に、デービッドの様に「あげる」も、自分が人に「与える」のか、人から「与えられる」のかによって違ってくる。  「池田さんは妹に本をあげました」。「池田さんは妹に本をくれました」−−この違い、説明出来ますか?

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1986年5月6日(火曜日) 『ぼくはつかれているらしい』

 日本語教師をしている京子さん、イタリア人の教え子と恋に落ち、昨年めでたく結婚した。いわば職場結婚。日本語教師などしていると、仕事に夢中になって、ついつい婚期を逃しがち。京子さんも「結婚しない女」同盟の一人だったのに、ドミニコ君の甘いプロポーズには根負けしたらしい。 結婚生活やいかに、と電話をかけてみた。  「彼、少しは家事手伝ってくれる?」「それがね、いつも『ぼくはつかれているらしいです』なんて、他人ごとみたいなことを言うのよ。おかげで私、結婚前より忙しくなっちやった」  それを聞いて吹き出してしまった。大体「-らしい」という言葉、他の人の様態を表現するものであり、自分に使うものではない。  そう言えば、ドミニコ君、結婚する前もぼくは来月、結婚するらしいです」などとおかしなこと言っていた。 京子さん、家事も日本語も、彼を特訓するなら今のうちですよ。

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1986年5月15日(木曜日) 過去形では別の意味に

 ラマダン(断食)の月があけ、マレーシアの学生達にパーティーに呼ばれた。 最近はイスラム化の影響からか、女性が頭からスッポリ、ベールをかぶっているのは残念だが、男性達は白いブラウスにサッシュなどしめて、どこかの国の王子様のようだ。テーブルには豚肉こそないが、色彩美しく、おいしそうな料理が並んでいる。隣にいるタナーさんが私の耳にささやく。  「先生にスピーチをお願いしたいと思いました」。 私だって頼まれれば、事んで引き受けたのに。「だってだれも頼まなかったわよ」  彼はキョトンとした顔をして「今、先生にスピーチをお願いしたいと思いました」と言う。彼は別にあきらめの表情を浮かべているわけではない。どうやら今、依頼されているのだと分かるまでには数秒かかった。日本人なら「先生にスピーチをお願いしたいと思いまして...」と言うところだが、過去形で言われると、別な意味になってしまう。難しい、難しい。

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1986年5月18日(日曜日) 「ドアが閉められてある」

 東京・駒場の留学生会館食堂。何しろ値段が安い。ポークソテーにスープとライスで三百五十円。足りないと思ったら目玉続きを頼むと、目の前で焼いてくれて六十円。私は授業の前に、ここで学生達と食事をするのを楽しみにしている。ところが今日は、食堂が休みとみえる。「食堂のドアが閉められてある」そうだ。彼らは「閉まっている」と「閉めてある」を混同しているのだ。  日本語では同じ意味で、自動詞と他動詞を持つ語は少なくない。その時「自動詞+いる」「他動詞+ある」の使い分けが行われる。 「鍵がかかっている」→「鍵をかけてある」。「ドアがあいている」→「ドアがあけてある」。  「あっ、先生ブラウスのボタンが、はずれてありますよ」 「ううん、一番上のボタンは、わざとはずしてあるのよ」-私は心の中で苦笑しながら答えるのだ。

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1986年5月19日(月曜日) 私も映画を見るはずです

 話題の映画「アウト・オブ・アフリカ」を皆で見にいくことになった。邦題は、どういうわけか「愛と哀しみの果て」とロマンチックなタイトルに変わっている。「日本人は何にでも『愛』をつけてしまうんですね」とは、いつもシニカルな東ドイツのハンスの感想。  「でも変は永遠のテーマでしょ?」「それでも多すぎますよ」あなたも私たちと映画を見に行く?」「ええ、私も映画を見るはずです」  彼はモスクワ大学で日本語を勉強したということで、難しい語いを使いこなす。しかし、それにしては初歩的なミスが多い。  「−はず」は日本語の教科書では形式名詞として初級の終わりの方に出てくることが多い。これは話し手が他の人の行為に対して、自分の考えを言う時に使うもの。「ハンスはこのくらいの文法はわかるはずです」のように。ハンスの発言は「映画を見るつもりです」とするべきだろう。

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1986年5月20日(火曜日) 「私の宿題を見たいですか」

 オランダからの留学生ヨースト。 実に礼儀正しい様子で「先生、私の宿題を見たいですか」とそっと宿題を差し出す。「ああ、またか」と思う。牧の物腰を見れば、「宿題を見ていただけますか」と言いたいのが良くわかる。この類の間違いには人種も国境もない。  先生、お茶が飲みたいですか」は「お茶いかがですか」「黒板に、私に書かせたいですか」は「私が黒坂に書きましょうか」ヨーストのような物腰なら腹も立たないが、学生の態度によっては、分かっていながら不愉快になることもある。  友人の男の先生など「『リポートを見たいですか』なんて育ったら『いや、見たくないよ』と言って返すことにしている」と言い切る。案外そのくらいの方が良いのかもしれないが、自分に敬語を使うように指導するのは、教師にとって何やらオモハユイ。皆さんがこういう場面に出あったら、腹を立てないでくださいね! 

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1986年5月22日(木曜日) ?全部食べない〃

 国際結婚をした京子さんの話。ドミニコ君の奥さんでベテランの日本語の先生だ。新婚ともなると夜の授業はつらい。それでも彼女、日本女性の?カガミ?のような人できちんと夕啓品福してくるらしい。 授業の前にラブコール。  「ドミエコ、夕食全部食べた?」「えっ、全部食べないの、どうして? 気分でも悪いの」。 そばで聞いていた松山先生、「ここに持って来れば僕が食べてあげるのに」なんて合いの手を入れている。 会話はまだ続いている。 「生ハム好きだって言ったでしょ、だから高いのに牛ハムとメロンのサラダにしたのよ。えっ、それは食べたの。だって食べないって言ったじゃない」「−−」 「そういう時は全部は食べないって『は』を入れるのよ」。国際結婚って大変だな。そばで聞いていて心配になった。「は」一つでけんかになり兼ねないのだから。

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1986年5月25日(日曜日) 試験に受かってしまいました

 留学生と言っても大学生、研究生と様々。最近は一年間、日本講の予備教育を受け、大学を受験する学生がふえてきた。受験と言っても日本人の学生と同じ試験を受けるわけではなく、別枠が設けられている。三月には私たちの耳に朗報が次々に入ってきた。「青山学院に受かりました」 「学芸大に入ることになりました」等々。  ところが、サッカーの選手をしているブラジルのジヤイール君、いつものユーモラスな表情で「大学の試験に受かってしまいました」と言う。冗談で受けたら受かってしまったが、本当は行きたくないのだろうか? 「おめでとう」と言っていいものやら悪いものやら……。  「−てしまう」には、思い通りにいかなくて残念だ、という気持ちが含まれた、動作の完了の意味がある。病気になってしまう。ドルがどんどん下がってしまう。ジャイール君、この微妙な意味の違いが分、かりますか?

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1986年5月26日(月曜日) ベッキーはカワイそうです

 ベッキーはアルゼンチンの女の子。陽気で、黒いカーリーヘアが入道雲みたいで、人生をリラックスして生きている感じ。でもアフリカのボンゴレ君、「ベッキーはカワイそうです」と言うのだ。どうして? ベッキーに何があったの?  でも心配することは無かった。ボンゴレ君の言いたかったのは漢字で書けば「可愛いらしい」。  様態を表す「そう」。高い→高そう、おいしい→おいしそう。「い」を取って「そう」をつければいい。 それでボンゴレ君、かわいいの「い」を取って→そう」をつけたら「かわいそう」になってしまった。これでは意味が違ってしまう。  他にも例外はある。「あの青いバッグが良いです」の「い」を取って「そう」をつけると「よそう」。 この場合は「さ」を加え「良さそう」にする。同様に「彼にはお金が無い」 「彼にはお金が無さそう」になる。

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1986年5月28日(水曜日)  頭は痛いです

 「日本の大学生は余り勉強しませんね」というのが留学生たちの感想。それに反論を唱えたのが中国から来ている西さん。「そんなことはありません。私たちは毎日遅くまで実験をして、いつもつかれて頭は痛いです」と言う。彼女は東工大で勉強中。来日後半年。多くの学生が日本人化されていくのに、彼女は相変わらず青い上着にズボン、髪をゴムでまとめお化粧気のない顔が初々しい。  「『は』ではなく『が』を使い『頭がいたいです』となるのよ」と言うはやすし、説明するは難し。日本語では体の部分が痛かったり冷たかったりする時「−が痛い」「−が冷たい」と「が」を使う事が多い。「息が苦しい」「手がだるい」なども同じ。  役女は注意深く説明を聞いた後、「でも頭がもう痛くありません」と言った。 一難去ってまた一難。「は」と「が」の区別はそう簡単に覚えられるものではない。私も頭がいたいです。

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1986年5月29日(木曜日) あの太る人が私の先生

 「アンデイーの先生だれ?」「あの太る人」。役は廊下のむこうで立ち話をしている同僚のA子先生を指さす。 彼女は確かに良く食べるけれど、これから、そんなに太るとも思えない。「太る人」では、まるでこれから毎日、太り続けていくようではないか。「あの太った人」と教えたら、「だって今、太っているのに、どうして過去形を使うの?」とアンディー。  なるほど「−た」は過去形と教えたのだから、無理はない。「太る→自動詞→太った→自動詞+た」で名詞の前に来ると形容詞のような働きをする。つぶれる→つぶれた箱。曇る→曇った空。変わる→変わった花。  この説明を聞いてアンディー、ちょっと納得した様子。 「じゃー僕はやせた人でしょう?」と言う。私達に気付いたA子先生、むこうで手を振っている。ごめんね、A子先生、こんな例文に使わせていただいて。

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1986年6月1日(日曜日) あれがだれのウイスキー?

 授業のあと、学生たちと渋谷のパブに繰り出す。ボトルキープの棚を見上げたジェローム。 「佐々木」と書かれたウイスキーを素早く見つけ出し「あれがだれのウイスキー?」と聞く。  「おあいにくさま、私のじゃないわ。」佐々木なんてありふれた名前なのよ」  「あれはだれのウイスキー?」 −どうして「が」ではなく「は」なのだろうか。「明治神宮はどこ?」「あなたのご主人はどんな人?」「あの人形はいくら?」「運動会はいつ?」 −これらの又の共通事項は、いったい何だろうか。  「A=Bですか?」のBの部分に「どこ」→どんな人」「いくら」「いつ」のような疑問詞が来る質問の文では「が」ではなく「は」を使うようである。こんなことを考えだしたのは、だれなんでしょうね?

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1986年6月2日(月曜日) ドロボーが盗まれました

 世界で最も安全な国だと言われている日本。ところが、この平和な国日本で、こともあろうに留学生の部屋に三度も泥棒が入ったと言うのだ。一回目は時計やラジカセ、二回目は革のジャケットやスーツ。そして三回目、「先生、また、どろぼうが盗まれた」とポール。今度は日本語の教科書まで!  ところで、こういう場合の受身形、助詞は「に」を使う。「どろぼうに盗まれた」「雨にふられた」「赤ん坊に泣かれた」。これらは英語の受身といささかニュアンスが違う。そうされて困った、という気持ちが込められているので、被害の受身、あるいは迷惑の受身とも呼ばれる。  「先生が食べられた」(尊敬)。「先生に食べられた」(迷惑の受身)−たった一字で意味が全く違ってしまう。

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1986年6月3日(火曜日) しにん来ます

 マイクロバスをチャーターして、留学生達と東京郊外の秋川渓谷へ出かけることになった。朝七時集合だというのに、まだ空席が目立つ。  「ニコル、あと何人来るのかしら?」「しにん来ます」。この返事には皆で笑ってしまった。しにんと言われて頭に浮かぶのは「死人」死人と河原でバーベキューなんてちょっといただけない。  しかしニコルにしてみれば、イチ、ニー、サン、シーがヒトリ、フタリ、サンニン、ヨニンと、なぜ、めんどうくさい数え方をするのか理解に苦しむところだろう。  漢語のシ(四)は(死)のイメージがあるため嫌われ、四(ヨ)時、四(ヨン)才−とこの場合だけは、大和ことばの数え方をすることが多い。ニコル君わかってもらえますか?

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1986年6月4日(水曜日) 勉強 からダメ

 ミナ「ねえ、ジム、あした映画見に行きましょう」。ジム「残念けど、勉強からだめ」。ミナ「じゃ、あさっては?」。ジム「学校からダメ」。ミナ「学校が終わってからは?」。ジム「じゃー宿題の手伝いくれますか」。  ジムは日本語がとても上手だが、どうしても使いこなせない文がある。「−だから」「−だけど」という文だ。ジムとの会話に慣れているミナは気にならない様子だが、そばで聞いていると、噴き出してしまいそう。  勉強だから、学校だから−−は「名詞+だ」の形、残念だけどは「形容動詞+だ」の形。どちらも「だ」がないと、何となく間の抜けた文になってしまう。  反対に「形容詞+だ」にして「高いだから買わない」と「だ」を不必要な所につけてしまうこともある。ジム君、これが使いこなせたら、一人前ですよ。

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=おわり