サウサンプトン便り 上 「日本語クラスで」日本は中国の一部… サウサンプトンはロンドンのウォータールー駅から南へ一時間。人口二十三万人の港町。ローマ時代の遺跡が残り、人々は船で五、六時間のフランスはシェルブールまで、気軽にワインを買いに行ったりする。一昨年から毎夏、この町のサマースクールで日本語を教える佐々木瑞枝さんが、その体験を書いてくれた。 日本人は明治以来、欧米の方を向いて生活して来た。欧米の文化に追いつけ、追いこせで、追いこした今でも、まだ気づかないふりをして、欧米のものをありがたがっている。だから、私たちはイギリスの歴史も地理も、よく知っている。それなのに、イギリスの人たちときたら、日本のことをまるで知らない。 A「その洋服どこで買ったの?」 B「東京で」 A「えっ、東京でもそんな服が買えるの?」 C「日本って、中国の一部でしょ」 D「東京は汚染がひどくて、皆マスクをしてるんだってね」(これは新聞記者の発言) 風邪の時にかけるマスクが、誤って紹介されたという話は聞いたことがあるけれど、これでは全員汚れた空気を吸わないために、マスクをして歩いているみたい。私がそうではないと説明すると、Dさんは「でも、マスク持って来ていたら見せてほしい」。 あまりにも日本に対して無知な(失礼)イギリス人に、私は少々腹をたて、私は日本語・日本文化の授業を始めた。初めは近所の人に、次の年はサークルの人たちに、そして今年はサウサンプトン大学のレクチャールームで。 二十人ほどの英国の紳士、淑女たちが日本語の授共に姿を見せた。日本語の授業といっても彼らの関心は日本文化に向けられていたので、三十分は会話、三十分は日本事情という形をとった。幸い国際交流基金のロンドンのオフィスで日本に関するスライドをお借りすることができ、スライドを使いながら講義した。 サラリーマンの背広姿については、「なぜドレスアップしているのか」「日本人はいつも着物を着ているんでしょ」という質問が出たり、「広島はもう復興したのか」という質問が出たり、現在の日本の姿を、皆知りたいようだった。日本語のレクチャーに来た人たちは、どちらかといえば、知的階層に属すると思うけれど、それでもこの程度。 「知っている都市は」と聞くと、必ず「東京」「大坂」に次いで「広島」「長崎」が出てくる。核について関心は高く、原爆記念日には、イギリスの各地で集会が持たれた。サウサンプトンでも、夜八時から河原で「核反対」の集まりがあった。唯一の原爆被災国である日本よりも、イギリスの方が反対運動が盛り上がっているかに思えた。 BBC放送に勤めている私の友人にいわせると、「BBC放送でも、随分日本紹介のプログラムを作ったんだけれどね。皆あまり見でいないのかもしれないね。どうしても日本人のステレオタイプのイメージが強いのでしょう」ということだった。 サムライがヨロイ・カブトに身を固めて、コンピューターを操作しているマンガを見たことがあるけれど、笑ってはいられない。 車、カメラ、時計と一緒に、着物や紙の家が同居していては困るのだ。東京に帰った今、来年のレクチャーに備えて、ごく当たり前の日本人の生活の写真を写しまくろうと思っている。生涯、日本に行くことのないかもしれないサウサンプトンの人たちに、それが一番の「日本事情」紹介になるだろうから。 (日本語教師) サウサンプトン市民を相手の講義は楽しい雰囲気で【(左端が佐々木さん) 毎日新聞 1984年(昭和59年)9月10日(月曜日) サウサンプトン便り 下 尊敬し、いたわり合う夫婦 ボランティアに忙しい毎日 ジーンは尊れい好き0台所はピカビカだ ジョンは六十四歳、ヘイワード家のご主人。電話の技師をしていたそうだが、数年前に退職。「いつまでも老人が勤めていたのでは、若者の働き口がないでしょう。それに新しい機械がどんどん入って来て、この頭では追いつかなくてね」とはご本人の弁。ジーン、専業主婦。私が洗濯の手伝いをしようとすると 「ノーノーノー。これは私の仕事、あなたが手を出してはだめ」とユーモアたっぷりに断られてしまう。 二人はサウサンプトンの郊外に快適な家を構えている。この夏、私はヘイワード家の人々と薄らした。 グランマ(ジーンのお母さん)は八十八歳。実にかくしゃくとしていで、昼間は居間の窓辺に座り読書。時々台所の仕事を手伝ったり、散歩になるから、と私の手紙をポストに入れに行ったりしてくれる。つい数年前までは一人で暮らしていたとのこと。自分ででき ることは人の世話になりたくないと私にもらした。ジーンとはよく言い合いをするけれど、それは母娘のことで、かえってはほえましい。 サウサンプトンには実に老人の姿が多い。決して老人だけの街という訳ではないが、バスはまるで老人専用車かと思うほどだし、スーパーマーケットでも不自由な足をひきずりながら、買い物をしている人をよく見かける。日本も二十年後には、こんな老人社会を迎 えるのだろうが、果たしてその時に、「たとえ一人でも、人の世話にならないで、生きていける方が幸せ」という哲学を持つことができるだろうか。 ジョンとジーンの一週間を追ってみると面白い。二人ともサマリタンというボランティアで、身の上相談にのるメンバーだが、週に二回はセンターに行き、週に一回は寝袋を車に積んで出掛ける。夜、何かあった時には、いつでも飛び起きられる態勢をとるために、仮眠が必要なのだ。その他、週に一回はアッシャーといってやはりボランティアで、劇場の案内係をひきうけているか案内した後は劇場にゆっくり座って、ただで観劇できるから、楽しい仕事なのだそうだ。その他にも、右半身不随の友人がいて、ときどき海岸に彼を連れて出掛ける。毎日、庭に座って鳥を見て暮らしている近隣の老夫婦のためにバード・テーブル(鳥のえさ台)を作るのだと育って出掛けたり、家に落ちつく暇がない。 ジョンに「あなたの奥さんは、いつもよその人のことばかり考えているのね」と言ったら、にっこり笑って「彼女は本当にすばらしい女性だ」という答え。ジーンは「あなただって、私と同じぐらいすばらしいでしょ」とまぜ返す。二人ともお互いに尊敬し、いたわり合う理想の夫婦の姿を見た気がした。日本にこんな夫婦が一体どのぐらいいるだろうか。「くれない族」とか果ては「夫の退職と同時に妻も退職、退職金は折半」という記挙が紙面をにぎわす。日本人は、働いて白分たちの生活を向上させることに熱心なあまり、まわりを見る余裕がなかったのかもしれない。経済大国が文化小国にならぬよう、そろそろ私たぢもまわりを見回してもいいのではないか。 毎日新聞 1984年(昭和59年)9月11日(火曜日) |