横浜の高台にある小さな教室は、そのまま小さな地球だった。 中国、韓国、ベトナム、カンボジア、マレーシア、オーストラリア、アメリカ、イギリス、ハンガリー、ブルガリア、ロシア……。世界各国から集まった留学生 が二十人ばかり、そちこちで雑談を交わしている。肌の色も顔付きもお互いに異なる若者たちの共通語は日本語。それだけがちょっと変わった、でもちょっと誇 らしい「地球」の風景だった。 この日の授業は、彼らの日本語によるプレゼンテーション。半年間の学習の成果が試される。同時に、佐々木瑞枝さんにとっては、半年間の教育の成果が問われる時間でもある。 「私はまんじゅうを持って帰りたいと思っています」。イギリスから采たリサさんの唐突な話に、笑いがはじけた。「私の国には、あんこがありませんか ら」。韓国のキム君は「横浜の国際花火大会をよろしく」と宣伝しておきながら、「でも、花火は金の無駄遣いだと思います」と、きついひと言も付け加えた。 自らの思いを日本語で何とか語れるようになった留学生たちの成長ぶりに目を細めながら、「この時期はつらくて」と声を落とす。九月が新学期の国からの留 学生たちは、夏休みに日本を去ってしまう。授業だけでなく、食事やカラオケはもちろん、海水浴や買い物、テニスから旅行まで、生活のほとんどを彼らと一緒 に過ごす日々なだけに、別れの悲しみもまたひとしおなのであろう。 横田基地の将校夫人クラブで日本語を教えてみないか、と声がかかったのは、都立高校で英語を教えていた二十数年前のこと。その延長で知り合ったアメリカン・スクールの教師から受けた質問で目からウロコが落ちた。「『……てくる』の用法を教えて下さい」 「例えば、『持ってくる』なら、持ちながら来る(come)という意味よ、と説明したら、でも、ここからどこかへ取りに行って持って帰ってくる(go and back)という意味もありますよねと。それに『暑くなってくる』の場合はまた別の意味になるんじゃないかって」 これが、外国人を通じた日本語再発見の第一歩。本格的な教授法のトレーニングを始めるきっかけにもなった。間もなく、迷いながらも英語教師を辞し、日本 語教師として新たなスタートを切る。舞台は駒場留学生会館。そこで出会った留学生と付き合って、自らの決断が間違いではなかったと悟った。 「とくにアフリカやアジアなど途上国の留学生がそうですが、自分が国の将来を切り開いていくんだという使命感に、みんな燃えているんです。そんな躍動的な彼らの姿に、書物から得る外国へのイマジネーションとは全く違う現実感、空気の振動のようなものを感じました」 たった一時間、教室にお邪魔しただけだが、その感動はわがことのように理解することができた。そんな彼らが、自分の指導によって、日本語の能力を日に日 に高めていくのを目の当たりにする快感。「働きバチ」「無表情」といった日本人に対するステレオタイプの偏見が溶けていくのを知る喜び。「その変化は芸術 的」ですらあるという。さらには、彼らが話すぎこちない日本語を通じて、自らの日本語に対する理解が深まっていく。こんな刺激的な世界はそうはあるまい。 発見の数々は、多くの著書となって紹介されている。 駒場、山口大、そして横浜国大と、十八年間で教えた留学生は約二千人に達したが、それぞれが「未知との遭遇」だった。「一人ひとりに秘められた宝物を探り出すのが、とっても楽しいんです」と目を輝かす。 留学生が書いた授業の感想文を何通か見せてもらった。その中の、こんな一文に目が留まった。「その人その人にあった対応をしてくれたことに、とても感謝 しています」っそこには、語学教育の枠を超えた心の通い合いがあったのだろう。遠い異国で孤独や不安と戦っている留学生にとって、自分のアイデンティ ティーを認めてくれ、優しく包んでくれる彼女は母のような存在であり、この教室は「日本のわが家」であったに違いない。 心から信頼を寄せる人物がいる国を悪く思うわけがない。日本を愛する若者がそれぞれの国にもどり、その愛を広めていく。その源に自分があるというのは、どんな気分なのだろう。 「人間個々のつながりがすべての基本だということを、ずっと忘れないでいてくれたら幸せです」 文・片岡 正人
写真・宮崎 真
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